先日、NHKの漫勉neoという漫画家の仕事を紹介する番組をみて感銘を受けた。
其の時紹介されていた漫画家は、手塚治虫だった。言わずと知れた漫画の神様と称される彼だが、番組の中で特に感銘を受けたことを書き記そうと思う。
説明しすぎない漫画
手塚のライフワークである「火の鳥」を紹介していた場面であるが、その作品の中に弁慶が出てくるコマがある。妻と共に敵からの逃避行の旅を続けているうちに、人知れず山奥で二人は朽ち果ててしまうというコマと、そのすぐ下のコマには、二人は人知れず船を漕ぎだし、海に出て生き伸びたという言い伝えがあるというコマがあるだけだった。
このたった二つのコマだけで、表現された物語をみると、この二人は結局どうなったのか?よくわからないという感想を持ってしまう人は多いかもしれない。
でも、私はこの説明しすぎない表現だからこそ良いと思うのである。
説明しすぎないが故に、読者は彼らがどうなったのかを想像するしかないのであるが、この想像するという行為は、読者の洞察力や想像力を養うことに大いに貢献していると思うからだ。
今までの物語の流れからすれば、やはり二人は朽ちはてたのだろう…。そこまでの道のりも険しく厳しいもので、最期をどのような気持ちで迎えてしまったのか計り知れない。と切なくなる人も居れば、いや、二人は何とか生き延びて何処かで慎ましく幸せに暮らしているに違いない!と希望を見出す人もいるだろう。
そのようにして、説明しすぎないが故に、人はいろいろと考えてしまう。
受け手が物語を完結させる。受け手に意図を汲んでもらえるはずだと、受け手を信頼する。
その行為こそが肝要なのである。この想像力を養うということは、すべてにおいて重要な影響を及ぼすと考えている。
私は、この洞察や想像力は、犯罪でさえも防げると思っている。
想像力が与える多大な影響とは
何故想像力がそこまで重要であるのか。
それは、近年の外食店の愚かな迷惑行為を例に出すと、わかりやすいと思う。
外食店で、ふざけた行為をしている様子を撮影する、そしてネットに動画を上げる。
この行動だけで、想像力のある人ならその後がどうなるかおのずとわかるであろう。
ふざけた行為を行う→他のお客が不快に思う行為である。衛生的に問題が生じる。
犯罪行為を動画で撮影する→決定的な証拠を自ら残している。
ネットにその動画を上げる→インターネットは世界中の人が見ようと思えば見れる世界なので、世界中に自分の愚行が広まってしまう。動画を見て不愉快な思いをした人がその店を利用しなくなり、店に損害が発生する。
結果的に、損害を被った店舗側に、多額の損害賠償を請求される、顔出しで動画を上げてるので誰か即座に特定されてしまい、後ろ指を指されてしまう。ネットでも叩かれる、当然警察からも追及され、精神的にも金銭的にも追い詰められてしまう。
というようなことが、想像力があれば安易に想像できるし、想像できればとてもじゃないがこんなことは、できなくなるだろう。自分の行いによってその先どうなるかまで考えていない。何も想像できないから幾ら前例があっても忘れてしまうし、愚行に走ってしまう。
近年の作品に足りないもの
私は、このように想像力が養えなくなった原因のひとつに、説明が過ぎる作品が増えたことがあると思う。
私が高校生の頃に、こんなことがあった。同級生にブラックジャックを勧めたくて貸し出したことがある。すると、同級生は、中途半場に終わる話ばかりで詰まらなかったと宣った。
私は、その感想を聞いて愕然とした。この子には、洞察や想像力というものがないのかと。
手塚漫画の説明しすぎず、余韻を残す奥ゆかしさというものが同級生には理解できなかったのである。
その後の同級生の私生活は、酷いもので自分の行いによる未来を想像できず、いろいろと大変なことをやらかしていた。
同級生に想像力がなかったのには、何かほかにも問題を抱えていたからであろうと思われるが、このようにして想像力が欠如している背景には、説明しすぎている作品が巷に溢れているのも影響しているのではないかと思う。
近年で言えば、「鬼滅の刃」であるが、本作品を私は拝読していないが読んだ人の感想を聞いていると登場人物がやたらと「説明」しているような台詞をいうらしい。説明しすぎず、余韻を残すという表現が受け入れられないから説明することに走ってしまう。求められるから説明してしまう。
近年の漫画、ドラマ、映画などに足りないものは、この説明しすぎず受け手の想像する力を促すことではないのかと思う。説明が足らないとクレームを受けて応えているが故に、結果的に想像力を奪ってしまうとは何とも皮肉なことである。
今一度、作品を作る際には、説明しすぎず受け手を信じる作品づくりにする勇気を持ってほしいと思う。
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