精神疾患について

遺された恋人を慰める人 徒然思うこと

昨今、精神疾患について理解が広がってきている様に思うが、まだまだ偏見や差別意識が根強いと感じている。

精神的な疾患となると、不透明で掴みにくく、他の病気や怪我と比べると理解が乏しいのが現実でありると思う。よくわからないからこそ、人は得体の知れなさに対して不安や恐怖を感じてそこから無意識の偏見や差別が生じているのではないかと思う。

よく、職場などで精神疾患を患っていることが露呈してしまうと、シフトを入れて貰えなくなったり、ヘタをすると解雇されてしまうこともある。面接で正直に答えると落とされてしまうというようなことが現実としてあるのだが、私はあることが透明化されていると強く感じる。

そもそも、精神疾患になった当人よりも、精神疾患になるまで追い込んでしまった人間の方が危険だと思う。人は、その元凶である危険人物のことを考えるのが恐ろしいし、面倒であるから目を逸らして無意識的に大元の原因を透明化して精神疾患を患った本人を自己責任であると責め立てるのだ思う

そうやって精神疾患に陥ってしまった人を責めたところで、病気は良くならないし逆に悪化してしまうし、精神疾患は寧ろ増えていく一方で、何の問題解決にもならないと考える。

私は、一人一人がこの問題と向き合って、どう解決していくかを考えることが回り回って社会生活を円滑にしていくと思っている。

「心の傷を癒すということ」という本を書いた精神科医・安克昌医師は、こう言葉を遺している。

「心の傷を癒すということは、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる全員に問われていることなのである。」と。

私が仮に面接官や上司だったとしたらどうするか。

まず、精神疾患になった元凶である者の名前を問う。人を病気に追い込むような危険人物こそ警戒する対象であるからだ。(元凶の人物も精神疾患である可能性もあるので、避けるのではなく警戒して対処するという意味である。)

そして、精神疾患になった本人にも病気に対しての対策を打てるかどうかを問う。
薬物療法や心理療法を駆使して解決に向かったり、対処することができるのであるか?
病気に罹患したもしくは、現在もしているのであれば、配慮はもちろんするが、同時に本人の努力も必要不可欠だと考えるからである。

もし、精神疾患への療法に対して知識が乏しいのであるならばこちらから提案する。それに答えられるであるかどうかを見る。

精神疾患になるまで追い込まれてしまったのは、大変気の毒なことであるが、当人の努力が要らないというわけでなはいと思う。

己の精神疾患と向き合い、治療を進めていくのは、大変苦しく辛いものであるが、

その峠を越えた先に、希望があると確信しているから、死ぬのではなく「よりよく生きるため」に、共に頑張って欲しいと心から願う。

以上が、私の精神疾患に対する考えであることを、記録として、ここに遺しておこうと思う。

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