黒澤明監督作品「生きる」の英国リメイク版の「生きるLIVING」を鑑賞した。
生きるは、言わずと知れた黒澤明監督の名作であるが、古い映画なので、知らない人もいるかもしれないので、簡単にあらすじを書いてみようと思う。
黒澤明監督作品 映画「生きる」のあらすじ
市役所に勤める男・渡邊勘治が、胃がんで己の命がわずかばかりなのだと確信してから自分の仕事上での事なかれ主義、抜け殻のようなだった人生。絶望から部下の女性・小田切とよから励まされ、希望を見出して残された僅かな時から人生を取り戻していく物語である。
黒澤明監督作品「生きる」の公式ページは存在しないが、こちらの生きるのWikipediaページがわかりやすかったので、一応紹介しておく。
「生きるLIVING」の日本版の公式サイトは左 英国版公式サイトは、右
※ここから先は、ネタバレ満載ですので、映画を未鑑賞でネタバレを知りたくない方は、ここでお引き取りください。
端折りすぎてオリジナルの強さが全くない!
まず、黒澤作品の生きるの方であるが、こちらは本編が143分なのに対し、リメイク版では102分と40分近くも短い。
余分な場面を端折っているならまだしも、必要な部分まで削れていてなんだかなと思った。
そもそも、黒澤監督の「生きる」に余分な場面なぞない!
例えば、「生きるLIVING」だとビル・ナイの演じるウィリアム(渡邊に当たる)がマーガレット(小田切とよに当たる)に自分の余命を打ち開けて人生をやり直す!と決心する重要な場面でも、アッサリと決意して彼女に「バス停まで送るよ。」というだけで終わってしまっている。
オリジナルの「生きる」の場面だと、渡邊が、小田切に余命を打ち明けてから彼女が仕事で作っているウサギのおもちゃを掴んで徐々に自分にも出来ることがあるのではないか?自分の与えられた役割で、成せることがあるのではないか?という感情が溢れていたように思う。
個人的には、マーガレットがうさぎのおもちゃを作る工場ではなく、カフェ勤務だったのもどうかと思っている。「生きる」では、小田切とよがおそらく市役所よりも低賃金であるおもちゃ工場の仕事を選んだのは、彼女が市役所での仕事がつまらなくて生きている気がしなかったからだろう。
小田切とよが、うさぎのおもちゃを出して「これを作っていると子供たちと友達になれる気がする」という言葉を発している。
いてもいなくても良いような市役所の仕事と比べたら、子供たちを喜ばせられる仕事は、どんなにか良いだろうかと思った。
渡邊が掴んで持っていってしまったうさぎのおもちゃは、そういう彼女の姿に励まされ、己が奮起するキッカケとなった重要なアイテムでもあるのだ。
リメイク版では、うさぎの景品が入ったクレーンゲームが出てくるだけである。
あの重要なアイテムを取ってつけたように登場させるなんてどういうことだろうか。
本当に黒澤の生きるをリスペクトしているのだろうか?甚だ疑問である。
葬式の場面でも、陳情に来た婦人たちが、教会の末席で泣いているだけで終わっている。
「生きる」だと祭壇が置かれている狭い座敷の真ん中に陳情に来たおかみたちが、大勢でやってきて渡邊を偲んで泣いている。彼女達は、何も言わずに手を合わせて帰っていくだけだが、事なかれ主義の市役所の同僚や上司たちなどが周りで見ている中での彼女達の存在は大きく、一緒に働いていた人間よりも、一緒に暮らしていた家族よりも彼女達の方が渡邊の死を深く深く悲しんでいるということを彼らに見せつけているかのように感じるとても印象的な場面なのである。
逆に要らない部分やそうじゃないだろ!ってところも…
個人的に1番要らないと思ったのは、マーガレットとピーターの恋路である。二人がウィリアムの意志を継いでこれから強く生きていく!というならまだわかるが、そうでもなく単に二人のイチャつくシーンを見せられただけで、何だこれ?という印象であった。
ピーターがウィリアムから遺書のような手紙を贈られるのも全く蛇足であると思う。
そんなものをいちいち用意しなくても、ウィリアムの最期の働きを間近で見ていたらわかるだろうに。今の観客に分かりやすいようにした演出なんだろうか?
雪のあの日に、巡査がウィリアムを見かけたというエピソードも見かけたというだけで、オリジナルのように、ウィリアム(渡邊)の遺体を発見したという下りではなかった。
ピーターが「あなたは彼の邪魔をしなくて良かったんです」と巡査に言った台詞は良いと思ったが、巡査が彼の最期の姿を見て、遺体も見つけたからこそ渡邊の死を知ることができたわけで、それがなければ一体誰が彼を見つけたというのだろうか?
ウィリアムが雪の日に雪に埋もれて絶命したということも、息子がマーガレットにチラッと「雪の日に」と言っただけで観客は、ウィリアムの死がそうであったということを察しなければならなかった。
これが余計なことをせずに表現できた上手い演出だとは、私には到底思えなかった。
あと、ウィリアムが歌ったスコットランドの民謡だが、これも気に入らない。
「生きる」では渡邊が「ゴンドラの唄」を歌っていたが、これは結婚すると自由が得られなくなる乙女の歌であるが、「命短し」という歌詞が渡邊の幾ばくかの命と重なる部分もあり、彼が不器用に歌うととても心に沁み渡る歌なのである。黒澤監督は、これを直感で良い!と思って採用したらしいが、その直感は、まさに当たっていたのだと思う。
リメイク版では、カズオイシグロの妻の親しんだ曲ということでスコットランド民謡を起用したらしいが、個人的な思い出を観客に押し付けるのではなく、命短しというゴンドラの唄のようにウィリアムの残り少ない人生とリンクするようなオリジナル曲を作ってそれを「皆が慣れ親しんだ曲」ということにして、採用してほしかったと思う。単に皆が慣れ親しんだ曲をつければ良いというものではない。
(私の案は、かなり強引だと思うが、映画「R R R」では、オリジナルのダンスをインド人なら誰しもが踊れるインド伝統のダンスだとしていたのでこれもありだと思う。)
生きるlivingのご紹介
と、私はここまで散々批判して本作をこき下ろしたわけだが、そうは言ってもよく見て見ないとどう感じるかは、人によって違うし、わからないとは思うので実際に改めて見ていただきたいと思う。
是非ともオリジナルの黒澤明監督作品映画「生きる」と見比べてほしいとも強く思うので、以下のリンクにて、併せてソフトをいくつか紹介したい。
黒澤明監督作品の「生きる」を見ていない人の「生きるliving」への評価は、上々だったが見比べてみると、どうだろうか?見る順としては、リメイク→オリジナルをお勧めしたい。
真の「生きる」のリメイク作品は、これだ!
私が、黒澤明監督作品「生きる」のリメイク作品だと認めたいのは、草彅剛主演のドラマ「僕の生きる道」である。公式は、そんなことを公言しているわけではないが、私はそうだと強く思っている。
あらすじ
生物教師・中村秀雄(28)は、受験には関係がない己の生物の授業を聞かない生徒を相手に淡々と授業をして過ごしている冴えない男であった。ある日、健康診断で、引っ掛かり要精密検査となり検査を受けるとなんでもないと思っていたのに、まさかのスキルス性胃癌になっていて余命1年の宣告を受けてしまう。病気になった実感もなく、茫然自失となり豪遊してみたり、自殺を図ってみたりするが、やがて自分が生きる道を見出して残された時間を「生きて」ゆく事になる。
公式ページに話の内容を詳しく書いているのでどうぞ。
この作品は、連続ドラマなので映画よりも長く丁寧に中村先生の人生が変わってゆくさまを描けていると思う。学校が舞台なので、生徒との交流を通じて話も膨らませていて秀逸なのだ。
中村先生が、病気を知ってから公園でブランコを漕いでいたり、貯金をゴッソリおろしてみんなに奢ったり、飲み屋で豪遊するなどというもシーンあり、「生きる」を彷彿とさせる場面が散りばめられている。
この作品は、「生きる」を元に話を丁寧に練り上げて広げていると感じる。主人公の結婚や恋愛、仕事に対しての思いも盛り込んでいてとても見応えがある。遺される大事な人もこの先、どうやって生きていくかも描かれている。連続ドラマであるが、これこそ余計は演出もされていなく、我々に生きるとは何かということを強く考えさせることができるドラマであると思う。
こちらの作品も是非ご覧いただきたい。
人は、生き甲斐がないと生きている意味はないのか
生きるも僕の生きる道も人々に、「自分の人生の生き甲斐を見出せ」と訴えているように思うが、私は人生とは生きる意味だとか、生き甲斐だとかが必要なのだろうかとも思うのだ。
もちろん、生き甲斐があったほうが、言葉の通り生きる甲斐もあるだろう。が、渡邊勘治は事なかれ主義の市役所の課長であったが、男手ひとつで立派に息子を育て上げた人であると思うし、中村秀雄も優等生のレールを走って淡々と生きてきた人ではあるが、世間的には進学高校の教師になった成功者の一人である。
人間というのは、生きているだけでいいんだ。それでいいんだ。と励ましてくれる歌詞がある。
玉置浩二氏の「田園」である。彼がこの歌を書いた1996年頃も中学生の自殺が多くそれを憂いた彼はそういう歌詞を書いて私も大変励まされた一人である。当時放送されていたドラマ「コーチ」にも主題歌として起用されていたが、ドラマにもピッタリとシンクロしている名曲であると思う。
人は常に生きる意味だとか、生き甲斐がないとダメだとかいうけど、何が偉大なことを成し遂げなくても、私もただ生きているだけでもいいと思っている。その中で、できる範囲で生き甲斐を見つける人生でいいんじゃないかと思う。
最後に、皆様に玉置浩二氏の田園を贈って締めといたします。
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